真っ白いピカピカと煌めく目の前の光景に吐き気がした。
わたしは京都府で生まれ育った。自分の容姿や声が嫌いで、自分は男に生まれ落ちたのに性転換されたんだ、と思っていた。兎に角ちいさい頃から自信のない、コンプレックスを抱いたまま思春期を過ごした。
家庭はそんなに恵まれた方ではなかったけど不器用な日々のなか、それでも両親の愛は感じ生きてきた。
大学は祖母の家にちかい美術大学へ通い、そこで今まで自分の感じてきた違和感がなんの躊躇もなく、なんのしがらみもなく、消えていってしまったことを覚えている。その毎日はわたしにとってまばゆい日常で、たしかに自分の思い出となっていった。
大学で出会った友人に「おとちゃんは東京を知ったほうがいい」そう言われたことで、東京の文化を知り、そのまま東京のデザイン会社に就職した。
南青山でグラフィックデザインをしているわたし。入社前はなんでもやります、頑張ります。ネバーギブアップ精神だったわたしでも、お金をもらってデザインを成立させるということは想像以上の労力だった。
自宅のある神奈川県からドアトゥードアで1時間半の満員電車での通勤に、半年もたたないうちに耐えられなくなった。そんなある日の満員電車のなか、とうとう視界がホワイトアウトした。
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なにもわかっていない、未熟な22歳のわたしが飛び込むように入社した会社は2年2か月で退職した。
自分は他人よりも苦労してきたつもりで生きてきていた。だからだいたいのことは切り抜けられるだろうという自負があったけどそんなことはなかった。
退職したその後はすっかり無気力になってしまっていて、すぐに就職する余裕は生まれなかった。夢に自分の身体が合わなくなった現実を突きつけられた。
なにもしないまま一日一日を浪費していたところに、たまたま目にはいったのが日本仕事百貨で募集していた新潟県三条市にある「しただ塾」という存在だった。いま思えばそれは然るべきタイミングだったんだろう。
そこで毎月10万円の給付金をもらいながら、神奈川にある自宅の家賃と奨学金を支払うことを決意し、わたしは2018年11月15日、晴れてしただ塾生となった。
塾生は計6名。しただ塾をきっかけに出会った人々とが交流し、女性3名でのシェアハウスが始まった。車がないと生活ができないような不便で自然のうつくしい、なにもない、なにも知らない場所に住み始めることになった。
そこで学んだこと、豊かな自然とか伝統産業とか・・・なによりも、人と時間・場所・事を共有するということだった。人の愛おしいほどの不安定で繊細な心を何度か垣間見たこともあった。それくらいにわたしたちは近い距離となってくうねるを共に過ごした。
気づけばわたしは「愛」についてずっとずっと考えてきたように思う。でもそれを仕事のせいにして忘れかけていた。いくつもの事象が重なってわたしでない私を生み出してしまっていた。
だけどここ三条は他所からきた、わたしたちに昔からそうであったように優しく寄り添ってくれる。田舎での暮らしは一人では成り立たない、人と人とが支えあって安心のできる生活ができるんだ。スローな時間の流れのなかで、ひしひしと、だけどしっかりと感じたことだった。
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わたしは思いもよらず就職先がとんとん拍子で決まり、途中退校というかたちとなってしただ塾を去ることになってしまった。この2か月半はきっとわたしの長い人生のなかでもかけがえのない、なににも変えられない日々になったと思う。
冬のアイスクリームはとてもおいしいことに気づけたし、たき火の煙くささも好きになったし、静かでうつくしい神社の神さまに挨拶をすることもできた。そういえば、冬の神隠しのようなしんとした夜は面白かったなあ。
一人の人間として向き合ってくれたすべての人たちと、風が吹くようにして人生にあらわれた、この不思議な巡り合わせにありがとう。
自分の夢に呪われてしまうそのまえに、自分を見詰めなおすきっかけのために、どうかしただ塾がこの先も上手につづきますように。
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profile / O 25歳
しただ塾4期生最年少でみんなに甘えまくる。