下田名人列伝(1)長野集落大竹至翁、実は下田郷誇るかつての桶職人

   
下田郷のシンボル八木が鼻を背に、国道289号線を右に曲がり、正面に守門岳を仰ぎながら真っ直ぐに田舎道を進む先には、縄文土器発掘でも有名な長野集落が佇んでいる。
珍しい石仏群を宿す大山神社の前を通り、守門川をまたぐ「なかたにはし」を渡るとまもなく大竹至さんのお宅がある。

何度も往復した長野への道のり
晴天の日守門岳を仰ぐ
長野集落の山神社
山神社の石仏群(多くのいしぶみ、長野集落ができるまでの来歴が刻まれた珍しい石碑もある)
山神社の庚申塔(八十里越道標)

草鞋づくりに興味を持っていた私が初めてお宅をお訪ねしたときは、玄関に大竹さんが優しい大きな熊のような姿で現われ、突然の来訪者を暖かく迎えてくれた。二回目にお伺いしたときは、屋根から落とされた雪を片付けており、都会育ちの私にはこれが下田のご老人の長生きの秘訣ではないかと感じられた。
そのとき見せていいただいたご自宅横の大竹さんの仕事場は、私の眼には民話の中の玉手箱のように映った。どこか懐かしい草鞋(わらじ)や藁沓(わらぐつ)、繊細な竹細工がおり重なるようにつり下げられていたのだ。

藁で作った履物

令和5年3月7日、草鞋作りを教えていただく日、こたつのある温かいお部屋で、一枝夫人を伴った大竹さんからいろいろなお話を伺った。まもなく、無農薬で育てたお米の稲藁を大竹さんに提供していらっしゃるご近所の酒井佐以さんが現れ、昔の話に花が咲いた。今日では、「はざがけ」後の稲藁のほとんどが肥料として粉砕されてしまうので、まともな稲藁が貴重品となっているという。現在農家を営んでいる酒井さんからは、農家の暮らしぶりをお話しいただいた。春には、芽吹かないうちに一年分の焚(た)き木を取るが、それを「柴山」(柴切りのこと)と言ったこと、彼岸にはそりで堆肥を撒(ま)いていたことなどを話してくれた。

左より、大竹至さん、大竹一枝さん、酒井佐以さん

私には、松尾芭蕉のように草鞋(わらじ)で旅をしてみたいという夢があるというと、すかさず酒井さんが、雨が降ると「しっぱね」(腰まで泥が跳ねあがる)があるよと教えてくれた。一枝夫人も「普段は裸足で学校へ行っていたんさ、畜産試験場などへの遠足には草鞋(わらじ)を履いていった。」と昔を偲びながらなごやかに話された。また、魚を獲る場合にはやはり滑らない草鞋(わらじ)を履いていたという。守門川にはよく大量のますが押し寄せたという。現在でもスポーツとしての沢登りに草鞋(わらじ)を使う人が多いというがなるほど理にかなった使い方だ。

草鞋を足に着けてみた


草鞋(わらじ)はもちろん、日本昔話に出てくるような米俵(こめだわら)や炭俵(すみだわら)、蓑(みの)、筵(むしろ)、藁沓(わらぐつ)などをこしらえるのは、もっぱら冬の農閑期。藁細工は生活の一部であった。
私が草鞋(わらじ)づくりに惹かれたのは、藁の持つ無限な可能性に魅かれたからでもある。昨今ヨーロッパでは、麦藁を圧縮し、内壁と外壁の間に詰めていく環境に優しい新しい家屋断熱法が普及し始めていて、手伝ったことがあったからだ。私がその話をすると、なんのその、かつては筵(むしろ)の下にさらに藁を敷いて断熱に利用するのは当たり前だったという。生活の知恵は、そんじょそこらの科学にも勝る。
そうしてしばらくして、大竹さんが下田郷でかつて名をなした桶職人であったことが明かされた。                 

大竹さんの民話の世界を彷彿とさせる仕事場。手前にある桶は、大竹さんの制作された桶です。
ふたつきの大きなお櫃は「ふつう」と呼ばれ、祝儀用、建前用に使われていました。

大竹至さんは、昭和6年生まれ。92歳、長野集落で生まれた。16歳から5年間、桶職人の弟子入りをし、最後の1年は親方の元で御礼奉公をした。桶は、杉素材で作るが、「たが」に竹を用いる。風呂桶をはじめ、漬物桶、汲み取りの桶、「きったて」(竹の筒を使った液体を汲む道具)、清水桶、「ふつう」と呼ばれるお櫃(ひつ)など、多くの桶を作った。様々な桶が昔の暮らしを飾っていたのだ。風呂桶は1年に一度「たが」を換える必要があり、桶職人として、近隣の集落に1泊して風呂桶を直しに行くこともあった。
大竹さんが、ビニール袋に大切に保管されたご自慢の大きな楕円形の「ふつう」(お櫃(ひつ))を取り出してくれた。「ふつう」は、祝儀用、建前用に使われていたが現在ではほとんど見ることができない。左右に持ち手があり、ふたがついており、うるしを塗ったものもあるという。なめらかで木目の美しい杉の肌を目に感じながら、集落の人が集いにぎやかに行われたかつての祭り事の情景に思いを馳せた。
残念ながら大竹さんは、35歳のとき、桶職人の仕事を退くことを余儀なくされた。大量生産の安価なプラスチックが普及し始め、杉を使った桶の需要が激減したのだ。そして、その後大工として家計を支えていった。

桶のたが作りを通じて、竹の切り出し時期や保存方法、竹の割り方、扱い方を熟知していた大竹さんは、70歳も過ぎたころ、草鞋作りや竹細工を始めた。各種ざるを初め、みかんなどを入れるお洒落な籠、「またたび」や葡萄の蔓の装飾のなされた小粋な花瓶を作っては、ご縁のある方、出会った方に差し上げているそうだ。

大竹さんの作品1(花刺し籠)
大竹さんの作品2(小籠)
大竹さんの作品3(竹筒の入った花瓶)

大竹さんは、同じ時期に縄(なわ)綯い(ない)や草鞋(わらじ)つくりも再開している。縄(なわ)綯い(ない)や草鞋作りは、大竹さんの世代の方は誰でも手慣れたものであったが、5,6歳の違いでもうできる人はいないという。
そうそう、桶の話ばかりしてきたが、私は大竹さんにその草鞋(わらじ)作りを仕込んでいただくために、大竹宅を訪問したのだった。桶談義がおしまいになって、大竹さんについて、杉や竹、藁の香り漂う仕事場へ向かう。
まずは、草鞋作りの基本である、藁縄を綯う(なう)ことから教えていただいた。

【草鞋作り(藁綯(わらな)い編)】 草鞋作りのための縄を綯(な)う。
一、藁の「くずとり」
まず、藁の「くずとり」である。大竹さんが藁の根本の方を手でまとめ持ち、地上に1,2度と垂直に打ちつける。すると、くずとなった枯れた藁が下に落ちてくるからそれを取り除くのだ。

藁のくず取り

二、藁を叩く「藁たたき」
そのあと、筵の上に座り、丸く平たい石の上で、屑を落とした藁を木槌(きづち)で叩いていく。大竹さんから、叩いていない部分と叩いた部分を手で触って比べるよう指示された。叩いていない部分は、固くごわごわとしていて、叩いた部分は滑らかになっている。藁のいいにほいがする。

藁たたき

三、藁縄を綯(な)う
それから、別の筵(むしろ)に並んで座り、麻衣(まい)でひざを覆ってその上で縄を綯った。4本から6本の藁を取り、片足の親指と人差し指に挟むか、または足の裏で抑えて固定し、ピンとはったまま二つに分け、二つの手の平で転がして一方の藁束を撚(よ)ると、二つの藁束が一つとなり縄が綯えていく。

縄を綯う様子

素朴な作業に見えるが、うまくなるには修練が必要だ。手の平の動きを通して無心になり、自然な素材である藁と自分が一体となる、するといい縄が出来るのではないだろうか、大竹さんの動きを見てそう思った。
難しいけれど、藁のかほりに包まれながら、藁がいつのまにか綯えていく。
縄が乾いていたら、舌で手の平を湿らす。なかなか調子がでない。少し調子が出てきても、また、藁を追加するときが難しい。
大竹さんは、優しい師匠であった。「うまい、うまい、いい縄になる。」「うまくなった。」忍耐強く私の藁との奮闘を見守りながら、大竹さんが、なんどもねぎらいの言葉をかけてくださった。

四、「縄こくり」
藁をぴんと張り、飛び出た藁を切ったり、他の一掴みの藁で縄を挟みしごくように取り除く。「縄こくり」というそうだ。

草鞋作り以前にこの藁綯いが基本であるが、大竹さんの手の平の腹の部分の厚みがその熟練の歳月を物語っている。
草鞋を作りたいと思って、大竹さんにお願いしたのだけれど、私もこの藁綯いの作業のとりことなった。

【草鞋を編む】

一、
草鞋を編む際は、2. 5メータ―ほどの縄を用意し、両足の親指にひっかけ手前に縄を引く。そのひっかけた2つの輪の部分が最終的に踵の部分につけられる紐穴となる。手前に引いた縄で足の前方の部分から網始めていく。草鞋底となる面が狭くならないよう、片手の指で縄でできたスペースを広げながら、そこに縄を通して編んでいく。

草鞋を編む

二、 藁縄を足していくときは、裏側から入るようにするのだが、草鞋の平面から飛び出している藁が左右に交互になるようにする。常に編んだ縄を引き締めていく。中盤で左右に紐を通す紐穴を作り、また踵まで網み進んでいく。

草鞋の裏、網初めに刺した藁が右左に並ぶ

三、踵(かかと)まできたら、踵のくぼみができるよう処理をして完成だ。

踵の部分

大竹さんの編む草鞋が形のよいものであるのに対し、私の編む草鞋は、細長く、それこそ小さくうごめくワラジムシのようであった。
大竹さんの編んだ立派な草鞋をいただいた。その草鞋と藁縄は今日、旧荒沢小学校の図書館を復活した〇彦カフェに展示されている。

〇彦カフェに大竹さんの草鞋が常時展示されている

【竹細工編】
桶に用いる竹の『たが』用に準備された直径50センチほどの竹の輪が、名残惜しく、現在の大竹さんの仕事場の一角につる下げられている。大竹さんは竹細工のために付近の竹林に生えている孟宗竹を利用してきた。10センチほどの太さの竹を繊細な5ミリほどの小さな竹片にするのは容易なことではない。

一、孟宗竹を割る
大竹さんが仕事場の前の道路に、使い古された木枕を置き、その上に太い孟宗竹を横たえ、大きな木槌と鉈(なた)を使って、竹を切り込んでいく。切り込みに、竹割用の板を挟み入れる。またそれと交差するように切り込みをいれ、そこにもう一枚の板を入れると十字になる。そこを鉈(なた)で強く叩いていく。力の要る作業である。私も大竹さんに倣(なら)い十字の板を鉈で強く打ち込んでいく。竹が動かないよう大竹さんが抑えてくれて、十字型板が端まで来ると大きな竹が「かぽっ」という威勢のよい音とともに4つに割れた。

孟宗竹を割る

二、鉈(なた)による「舵(かじ)取り」で竹片を作る
その四等分になった竹の一つ一つをまた半分に割っていく。4分の1から8分の1にする過程から割らしていただいたが、それでも私には十分な力がなく、片手で鉈(なた)を操ることができない。竹を腕に抱え込み、両手で鉈(なた)を引くようにして割った。その後、竹の節を削り取ったあと、まだ大きな竹片を少しづつ半分に割っていく。
左右の幅を均衡に保ちながら割っていく鉈(なた)による「舵(かじ)取り」をするのには、長い修練が必要なようだ。大竹さんが「はずした」と言いながら、私がゆがめた真ん中の割れ線を「舵(かじ)取り」をして戻してくれる。そうやって1センチほどの幅になったあとは、竹をはぐ作業をする。これもまた鉈(なた)の「舵(かじ)取り」次第である。私は何度も失敗したが、大竹さんが修正してくれた。

鉈による舵取り
竹片を薄くする作業にもかじ取りが必要だ

三、 竹を編む

六角形の網を原点とする「六つ目網」の籠は難しいので、今回は、編み方がより簡単な「ござ目網」の竹籠の制作をご指導いただいた。竹片を縦軸に交互に編み込んでいく。

六つ目網を編む大竹さん
ござ目網の籠を編む大竹さん

竹の香りが本当に心地よい。竹の内部の淡い筍色も「かわ」の淡い緑色も目に優しい。よく見れば、一つ一つの竹片は幅も異っている。そんな不揃いな竹片が編まれていくにしたがって、次第に温かみのある調和を生み、それが美しい籠となる。何度か私は間違えて、交互に編まれていない竹片を抜き取らなければならなかったがそれでも、次第に少しだけ竹に自分が馴染んでいくのを感じていた。竹も優しく少しづつ私に慣れていってくれていくようだ。

大竹さんと接するうちに、職人とは材料と心を通わせ、その材料の最良の姿を引き出すことに達している人のことを言うのであろうと思った。

作業の合間に大竹さんにカメラを向けると、いつも無心に作業を続ける大竹さんの姿があり圧倒された。

今回の訪問で、大竹ご夫妻のお話を聞き、実際に自然素材を扱う知恵を教えていただく貴重な機会をいただいた。『剛毅(ごうき)朴訥(ぼくとつ)仁に近し』。大竹さんからそんな印象を受けた。奥様の一枝さんの温かいご対応にも感謝したい。


初めて大竹さんのお宅に訪れたのは、雪も深い昨年末のことであった。今はすっかりと雪解けした田舎道を、青空にくっきりと姿を見せた粟が岳の残雪に気を引かれながら、私は大竹さんのお宅のある長野集落を後にした。(今回の取材と研修は2023年3月7日から22日までに行いました。地域おこし協力隊員 五十嵐カンナ)

粟が岳(長野集落を背に歩くと見える)

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