残りの人生があと50年あるとしたら3ヶ月は200分の1にあたる。
こんにちは。私はしただ塾4期生として初めて新潟県にやってきました。関西の出身で、新潟は今までの人生で一番北の土地です。
別で記事を書いたのですが、仲間のみんながとても真摯に自分と向き合った内容で仕上げてきており、少し上っ面で書いたことを反省したのでこの記事を追加で書きました。もう一つの記事は元いた場所としただの地域差に特化した内容で書いたので、こちらは極主観的な体験談を塾生の仲間たちから貰ったものにフォーカスさせて書きました。
しただ塾の説明会は関西には来なかったこともあり、私はWEBの少ない情報を頼りに説明会参加なしで応募し塾生になりました。同じように情報を探してここに辿り着いた人が、少しでも塾の雰囲気や空気感を感じ取れれば幸いです。
最初に、私がしただ塾に来た正直な目的は「冬のバカンス」でした。しかしハローワークの書類上ではそうはいかないので「今の自分のスキルにプラスアルファ何か能力が欲しい」と抽象的な理由を書いて入り込みました。「行った結果何か得られたらいいな」というふわっとした心構えで、特にアウトドアに興味があった訳でも、田舎の暮らしがしたかった訳でもありません。少し疲れていたので、ただ今いるところから非日常の世界に身を置きたくて来ました。
しただ塾の募集要項を読む限り「学ぶ場所の提供をしているけれど、職業訓練を利用したいわゆる『お試し移住』なんだな」という理解をしていたので、「じゃあ先方の意図を汲んで私も生活しに行くか、本当に気に入ったら住めばいいんだし」と少し冷やかし混じりでやってきました。移住の誘致がどれくらいあるかは少し不安でしたが、実際来てみると生活の場と学びの場の提供が誠実にあるのみで積極的に三条市への就職や移住を迫られることもありませんでした。「お試し移住」以上に参加者に目的を委ねられているプログラムや運営だと感じると共に、雪かき要員にされたらどうしようと案じていたことを反省しました。
実際住んでみて、近所付き合いに関しては初日に挨拶まわりがありましたが、回覧板を回すぐらいで特に田舎特有の付き合いがあって困るということはありませんでした。たまに野菜をくれる方もいて、閉塞感もなく皆さん親切でした。
私が住んでいた集落の自治会長の方は東京からのUターン組であり、しただ以外の暮らしをよく知っている方で、最後の挨拶に行った際こんなことを言ってくれました。「ここで過ごした3ヶ月が人生の何百分の一か何万分の一か分からないけど、『ああ、あの時新潟のしただという所で生活した時間があったなあ』っていつか思い出してもらえたら、それだけで嬉しいよ」。
しただ塾4期生は6名でした。男性3名と女性3名。男女それぞれでシェアハウスで生活します。年齢は期によってばらけるようなのですが、今回参加の内5名は歳が近くて、友達と同僚ときょうだい、あるいはそれ以上を混ぜ合わせたような深い関係になりました。歳の離れた1名はお父さんのような存在でした。私たちは授業でテントを共同作業で組み立てたり、アイディアを出し合い、まとめ、意見し、協力してイベントを企画するのはもちろん、休み時間にトランプで大貧民をするところから、放課後にお互いの家に行ってお鍋を囲んだり、サッカーのアジアカップを夜な夜な観て(つまらない試合でした)、そのまま雑魚寝したりと交流を重ねました。そしてこれまでの人生のこと、たとえば家族にしてしまい後悔していることや、冬に恋人としたデートの話、生涯で一番感謝していることなど、お互いがここに来るまでどう歩んできたのか、沢山の共有をしました。まるで積もった雪に熱された炭を落とした時のようにじわりじわりと、かつ急速に仲良くなりました。
年齢でいうと私は6人の真ん中あたりでした。年下の女の子2人と、年上の男性3人。2人の妹たちは私よりしっかりしていて、早起きで3つ下の女の子はいつもストーブを1日の最初に付け、リビングを温めてくれました。キッチンやトイレのタオルも気づいたら洗濯されていて、ゴミもいつの間にか捨ててくれていました。情緒不安定な私が泣いているときにじっと目を見て寄り添ってくれる優しい可愛い子でした。若いのに実力のある人でデザインをつくるのがうまかった。塾期間中から就活を進め、途中退校するという優秀な人でした。
2つ下の女の子は「手巻き寿司パーティしましょう」「餃子パーティしましょう」といつも身内イベントを企画してくれて、出不精の私ではありえなかった楽しい時間をつくり出してくれました。料理が上手で、たとえばピーマンの肉詰めをさっと作ってシェアしてくれる、いつも前向きでいることを心がけているちっちゃくてよく寝る可愛い子でした。「地方創生に興味があって新潟で仕事を探している」と最初からこちらに住む気で来た、まさにしただ塾に即した人でした。
2つ上の男の子はよくできる同僚みたいな人で、授業で考えるのが面倒臭いときは彼によく投げていました。機転の利く人で、たとえば新しい講師が来て「あだ名で呼んだらわからないだろうな」と普段は使わない苗字で私が呼びかけてディスカッションを始めると、すぐ察してくれて彼も苗字で呼びかけてくれました。いつも台本があるかのように言葉が出てきて、かつ説得力もあるので、プレゼンでペアになったら任せてしまえる安心感がありました。この人がいないと今期のしただ塾の授業は滞る場面が多かったと思います。
4つ上のお兄さんみたいな男性はよくいなくなる人で、初日に「シェアハウスの時計あと5つぐらい欲しいっす。風呂場とトイレと…」と言ってきたりする摑みどころのない人でした。ある時体育館の脇で彼が一人でいたので、何してんのかなと覗きに行くと「うまくなりたいんすよ」とボールを蹴りながら、私が知りたかったことの答えを一つくれました。
「家にいるとき何してたんですか?」
「ベイスターズの応援してました」
「でも野球ってシーズンありますよね?」
「冬は何してたっけな…時間が過ぎるのをただ待ってた」
一番上の男性は辛いことがあった時になだめてくれました。「つらくていいじゃない、つらいままでいてよ」「今は這っていてよ、そのうち砂を払う日がきますよ」と私の境遇を理解し肯定してくれました。大人で滲み出るやさしさが暖かくて、愚痴を言えば私が想像する以上の欲しい言葉を与えてくれました。多分みんなも同じようにこの人に頼っていた。まるでコミュニティの文鎮で、はみ出した気持ちをいつもそっと掬ってくれました。
参加した人たちはみんなスマートで、お互いの意見の相違があった時も話し合うことができました。課題の成果物も精度のあるものが上げられたと思うし、たくさん笑って毎日本当に楽しくて、一緒に生活する人たちをこんなに好きになるなんて来る前は想像もしていなかった。記憶を記録に残しておきたくて、何百も動画を撮った。途中から漠然とした記録や自分のためではなく、私の好きな人たちが私の好きな人たちのことを観るために残すようになった。新潟に来たことを後悔するぐらい傷ついたこともあったし、みんなに裏切られた気分になって何しに来たんだろうと思ったこともあったけど、効能もわからず参加した冬のバカンスはそれなりの効果を発揮して、私は夜中に目が覚める回数が減った。
3ヶ月があっという間に終わり、私は元いた場所に帰ってきました。少ない荷物を片付けたら新潟にいたことなんてなかったかのように職を探して、スーパーに難なく自力で行き、枝を花屋で買う生活が始まって日常にワープしました。ただ少ない荷物の中にあった非日常、しただ産焼酎の五輪峠は京都の料亭に持って行き、出してもらえることになりました。
思い返せば、みんなでホラー映画を観て(つまらなかった)、各々ミノムシみたいに毛布にくるまって寝た明け方。湖だったらよかったのにと笑いながらも、雪をかぶった大谷ダムに感動した1月の透明な空の日。満天の星空だと逆にオリオン座は見つけ辛いことを知った冷たく澄んだ夜。雪解けの水が屋根から落ちてくる晴れの日の雨音。私の好きな人たちがお互いどんどん好きになっていくのを垣間見る瞬間。すべてが愛おしくて、美しい日々だった。素晴らしい時間を共有できた。
残りの人生があと50年あるとしたら3ヶ月は200分の1にあたる。私の200分の1の時間は薬になりました。ただ過ごすことには意味があった。これからそれはミームになって、たとえばここで出会ったみんなからもらった優しさの形を、今後人生のどこかで他の誰かに真似する時、しただの欠片が私からこぼれて、人のものも自分のものも沢山の感情の粒を呑んだあの日々をまた思い出すんでしょう。